世界人権デーを記念するクリントン国務長官の講演

*下記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です。

国連欧州本部、スイス・ジュネーブ

2011年12月6日

 こんばんは。今日この場でお話でき、大変光栄でありうれしく思います。トカエフ国連欧州本部長、ワイデンさん、その他お集まりの皆さんにお礼を申し上げます。この週末、私たちは20世紀最大の功績のひとつを記念する世界人権デーを祝います。

 世界各国の代表者が、世界中の人々の基本的な権利と自由をうたう宣言の起草に真剣に取り組み始めたのは1947年のことでした。第2次世界大戦後、多くの国々が確実に残虐行為を防ぎ、全ての人々が生まれながらに持つ人間性と尊厳を保護する、このような声明の策定を求めていました。そこで代表者たちは作業を開始し、話し合いや草案の作成、幾度にもわたる改訂に多大な時間を費やしました。世界中の政府、組織、個人からも提案を取り入れました。

 1948年12月10日午前3時、2年近くに及ぶ草案作成と、夜を徹した最後の長い議論の末、国連総会議長が最終稿への投票を求め、賛成48カ国、棄権8カ国、反対票なしで世界人権宣言が採択されました。この文書が宣言しているのは、全ての人間は生まれながらにして自由であり、その尊厳と権利において平等であるという単純で力強い概念です。この宣言で、権利は政府が与えるものではなく、全ての人々が生まれながらに持っていることが明確に示されました。どの国に住んでいるか、誰が指導者であるか、さらには自分が何者かも関係ありません。私たちは人間です。だから私たちには権利があるのです。そして私たちには権利があります。だから政府はその権利を守らなければなりません。

 人権宣言の採択から63年間に、多くの国々が人権を人々にとって現実のものとする上で大きく前進してきました。かつて人々が自由と尊厳と人間性の恩恵を最大限に享受するのを妨げていた種々の障壁が、少しずつなくなってきました。多くの国で人種差別的な法律が撤廃され、女性を低い地位に追いやった法的・社会的慣習が廃止され、宗教的少数派による信仰の自由な実践が保障されました。

 ほとんどの場合、こうした前進を勝ち取るのは容易ではありませんでした。人々は公共の場でも私的な場でも、法律だけでなく人々の心や考え方を変えるために闘い、団結し、運動してきました。そして何世代にも及ぶそうした努力のおかげで、かつて不公平に扱われ人生を制限されていた多くの人々が、今ではより自由な人生を送り、地域社会の政治・経済・社会活動により本格的に参加できるようになっています。

 皆さんもご存じのとおり、全ての人々にそうした約束、現実、そして前進を保障するには、まだ成すべきことが多く残っています。本日私は、今も世界の多くの地域で人権を否定されているあるグループの人たちを守るために、今後しなければならない取り組みについてお話ししたいと思います。いろいろな意味で、この人たちは隠れた少数派です。彼らは逮捕され、暴力を振るわれ、脅かされ、処刑されることさえあります。その多くは同胞の市民から軽蔑と暴力をもって扱われ、彼らを守る権限を持つ当局は見て見ぬふりをし、それどころか虐待行為に加わることも珍しくありません。彼らは、就業や学習の機会を与えられず、住む家や国を追われ、危害から身を守るために自分たちの本来の姿を抑圧し否定するよう強要されます。

 そのグループとはレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(LGBT)の人たちです。彼らは生まれながらにして自由な、平等と尊厳を与えられた人間であり、それを要求する権利を持つ人たちですが、この問題は人権に関し今も残る課題のひとつとなっています。この問題についてお話しするに当たり、私はゲイの人々の人権に関する米国のこれまでの実績が完璧には程遠いと認識しています。2003年までゲイであることが犯罪とされた地域もありました。LGBTの米国民の多くは暴力や嫌がらせに耐えてきており、多くの若者を含むLGBTの中には日常的にいじめや排斥にあっている人たちがいます。ですから他の国々と同様、米国も国内で人権を保護するために、さらに多くのことに取り組まなければなりません。

 この問題が多くの人たちにとって慎重な取り扱いを要すること、またLGBTの人権保護を阻む障害は個人的、政治的、文化的、そして宗教的信念に深く根ざしていることを私は認識しています。従って私は今、敬意と思いやりと謙虚な気持ちで皆さんの前に立っています。この分野での前進は容易ではありませんが、行動を先延ばしにはできません。この考えに基づき、LGBTの市民の人権を認める世界的な合意に達するために、私たちが協力して取り組まなければならない困難かつ重要な問題についてお話ししたいと思います。

 第一に、事態の核心に触れる問題があります。ゲイの権利は人権とは切り離された別の問題であるという意見があります。しかし実際にはこの2つは同じです。もちろん今から60年前に各国政府が人権宣言を起草し採択した時には、人権宣言をLGBT社会にどう適用するか考えていませんでした。先住民、子ども、障害者など社会から取り残された人々にどう適用するかも考えていませんでした。しかしこの60年間に私たちは、このような人々は全ての人々と同様、人間性を共有しており、最大限の尊厳と権利を享受する資格があると認識するようになりました。

 このような認識は突然生まれたのではありません。時間をかけて発展してきました。その過程で私たちは、彼らのために新しい権利あるいは特別な権利をつくり出しているのではなく、彼らが常に持っていた権利を尊重しようとしているのだと理解するようになりました。女性であること、また人種、宗教、部族、民族的に少数派であることと同様、LGBTであることも、その人が人間であるという事実を損なうものではありません。ゲイの権利が人権であり、人権がゲイの権利なのはそのためです。
 
 性的指向、あるいは男女の外見や行動はこうあるべきという文化的規範に従わないという理由で、人が暴力を振るわれたり殺害されたりするのは人権の侵害です。政府がゲイを違法としたり、ゲイの人々に危害を加える者を処罰しないのは人権の侵害です。レズビアンやトランスジェンダーの女性がいわゆる「矯正レイプ」の対象となったり、ホルモン治療を強制されること、ゲイに対する暴力の呼びかけに応じて殺人が行われること、あるいはゲイが自分の命を守るために外国への亡命を余儀なくされることは人権の侵害です。またゲイであるという理由で救命治療を受けられないこと、司法制度の平等な利用を拒否されること、公共の場への立ち入りを禁止されることは人権の侵害です。私たちには外見や出身や人となりにかかわらず、皆が平等に人権と尊厳を享受する権利があります。

 2つめとして、同性愛が世界の特定の地域だけで発生するのかという問題があります。同性愛は西洋の現象であり、従って西洋以外の地域の人々には同性愛を拒絶する根拠があるという考え方があるようです。しかし現実には、世界中のあらゆる社会にゲイの人たちが生まれ、属しています。年齢、人種、宗教を問いません。職業も医者、教師、農民、銀行家、兵士、スポーツ選手とさまざまであり、私たちが知っているかどうか、認めるかどうかにかかわらず、私たちの家族であり、友人であり、隣人なのです。

 同性愛は西洋社会がつくり出したのではなく、人類の現実です。そして同性・異性愛者を問わず全ての人々の人権を守っているのは、西洋諸国の政府だけではありません。アパルトヘイト後に起草された南アフリカの憲法は、ゲイを含めた全ての国民の平等を守っています。コロンビアとアルゼンチンでもゲイの権利は法律で守られています。ネパールでは、最高裁判所がLGBTの国民にも平等の権利が与えられるとの判決を出しています。モンゴル政府はゲイ差別と闘う新しい法律の制定に取り組んでいます。

 LGBTグループの人権の保護は、豊かな国家だけに許されるぜいたくではないかという懸念もあります。しかし実際にはどの国でも、こうした権利を守らないことこそが損失につながります。例えばゲイか否かにかかわらず疾病や暴力で命が失われる、地域社会の強化につながる意見や考え方が抑圧される、起業家がたまたまゲイだったためにアイデアを実現できないなどの損失です。女性、人種的または宗教的少数派、LGBTを問わず、あるグループが他のグループに比べて劣るものとして扱われれば損失が生じます。ボツワナのモハエ前大統領は先ごろ、LGBTの人々が陰に隠されている限り、HIV・エイズに取り組む効果的な公衆衛生プログラムを実現できないと指摘しました。これは他の課題についても当てはまります。

 第3の、そしておそらく最も難しい問題は、LGBTの市民の人権を侵害する、あるいは保護しない理由として、宗教的または文化的な価値観が挙がることです。これは名誉の殺人、寡婦殉死、女性器の切除といった女性に対する暴力的な慣習の正当化に通じるものがあります。今でもこのような慣習を文化的伝統の一部として正当化する人たちがいます。しかし女性への暴力は文化ではなく犯罪です。奴隷制と同様、かつて神が認めるものとして正当化されていたことが、現在では受け入れがたい人権の侵害として非難されています。

 こうしたそれぞれの事例については、いかなる慣習や伝統も、誰もが持つ人権に勝るものではないことを私たちは理解するようになりました。これはLGBTの人たちに暴力を振るう、彼らの立場や行動を犯罪と見なす、彼らを家庭や地域社会から追放する、彼らを殺害する行為を暗にまたは明らかに受容するといった行為にも当てはまります。

 言うまでもなく、文化的・宗教的伝統や教えが実際に人権の保護と矛盾することはほとんどないと指摘しておく必要があります。実際には私たちの宗教と文化は、同胞に対する思いやりや励ましの源泉です。宗教を支えとしたのは、奴隷制を正当化した人たちだけではありません。奴隷制を廃止しようとした人たちも宗教を支えとしました。信仰の自由の保護やLGBTの人たちの尊厳の保護に向けた決意も、根源は同じだということを忘れてはなりません。私たちの多くにとって、宗教的な信条と実践は生きる意義と自己認識の重要な源泉であり、人間としての私たちの本質の基盤です。同様にほとんどの人にとって、私たちが築く愛と家族の絆も生きる意義と自己認識の重要な源泉です。他人への思いやりは人間らしさを表します。人権が普遍的であり、全ての宗教や文化に共通なのは、人間の経験が普遍的だからです。

第4の問題は、全ての人々の権利の実現に向けて進むべき道に関し歴史が何を教えてくれるかです。前進は率直な話し合いから始まります。ゲイは皆、小児性愛者である、同性愛は伝染する、あるいは治療可能な病気である、ゲイはそうでない人たちを誘ってゲイにしようとするといった意見を述べ、そう信じている人たちがいます。こうした考えは全くの誤りです。しかしこういう考えを推進し受け入れる人たちに恐怖心や懸念を語ってもらおうとせず、頭から否定していては、このような考え方がなくなることはないでしょう。信念を強制的に放棄させることはできません。

普遍的な人権には表現の自由と信仰の自由も含まれます。言葉や信仰が他の人々の人間性を傷つけるとしてもです。しかし私たちはそれぞれが何を信じようと自由ですが、全ての人々の人権が守られる世界では、何でも自由にできるわけではありません。

これらの問題を理解するには演説だけでは不十分であり、対話が必要です。事実、それには規模を問わずあらゆる場でさまざまな対話をする必要があります。信念の明確な違いを、対話を避ける理由ではなく、対話を始める理由ととらえるには意志が必要です。

 しかし前進をもたらすのは法律の改正です。米国を含め多くの国々では、法律による保護は権利がより広く認められた後ではなく、それ以前に実施されます。法律には指導的効果があります。差別的な法律は、法律以外による差別を正当化します。平等な保護を義務付ける法律は、平等という道徳的義務を強化します。実際問題として多くの場合、変化に対する恐れが消えるには、まず法律が変わる必要があります。

 トルーマン大統領が軍の人種隔離政策の撤廃を命じた時、それが大きな間違いだと考える人たちが米国には大勢いました。彼らは人種隔離政策の撤廃は部隊の団結を弱めると主張しました。そして、トルーマン大統領が実際にその政策を実行して初めて、この政策を支持した人たちさえも予測できなかった形で米国が社会として強くなったことを私たちは認識しました。同様に米国では「同性愛公言禁止(Don't Ask, Don't Tell)」政策の撤回が軍隊に悪影響を及ぼすと懸念されていました。しかし今では、当初撤回に対する最も強硬な反対派の一人だった海兵隊総司令官が、自分の懸念は根拠のないものであり、海兵隊はこの変更を受け入れたと述べています。

 最後に、前進は人の立場に立って考えることから始まります。「私の大切な人を愛することが犯罪だったらどのような気持ちになるだろうか。自分で変えられない自分の性質を理由に差別されたらどう感じるだろうか」と自問してみる必要があります。私たちが自分の中に深く根ざした信念についてよく考え、全ての人々の尊厳を受け入れ、尊重する努力をし、より深い理解を目指し異なる意見を持つ人たちと謙虚に関わり合う中で、私たちは皆この課題に取り組まなければなりません。

 第5の、そして最後の問題は、LGBTを含む全ての人々の人権を受け入れる世界の実現のために私たちが果たす役割についてです。皆さんの多くがそうしているように、LGBTの人たちがその取り組みを主導しなければなりません。彼らの知識と経験は貴重であり、その勇気は私たちを奮い立たせてくれます。私たちはこの理念のために文字通り命をささげた勇気あるLGBT活動家の名前を知っています。また私たちが名前を知ることもない活動家がさらに大勢います。しかし往々にして、権利を否定されている人たちは、求める変化を実現する力の最も弱い人たちです。少数派は単独では、政治的な変化に必要な多数派となれません。

 ですから一部の人間が脇へ追いやられている時に、他の人たちが傍観者でいてはなりません。前進を阻む障壁が取り払われた時にはいつも、その障壁の両側にいる人たちが協力して取り組んでいました。女性の権利を求める闘いでは、男性による支援が今も不可欠です。人種間の平等を求める闘いは、あらゆる人種の人々の貢献を必要としてきました。イスラム恐怖症や反ユダヤ主義との闘いは、あらゆる宗教の人々の課題です。それはLGBTの平等を目指す闘いにおいても同じです。

 逆に、人権の否定や侵害を見ても行動しない場合には、人権を否定し侵害する人々に対し、そうした行為は何の報いも受けないというメッセージを送ることになり、彼らはその行為を続けます。しかし私たちが行動すれば、効果的な道徳的メッセージを送ることになります。今年ここジュネーブで、国際社会がLGBTの人たちの人権に関する世界的な合意の強化のために行動しました。3月に開かれた人権理事会で、世界85カ国が性的指向や自己の性別認識を理由に人を犯罪者としたり、暴力を振るうことをやめるよう呼びかける声明を支持しました。

 6月に開催された同理事会では、南アフリカがLGBTに対する暴力に関する決議の議論で主導的な役割を果たしました。南アフリカ代表団は、人間の平等とその不可分性を求めた自らの闘争の経験を雄弁に語りました。この決議案は可決され、全世界のゲイの人々の人権を認める初の国連決議となりました。米州機構では今年、米州機構人権委員会がLGBTの人々の権利を担当する部門を設置しました。これは私たちが期待する特別報告官設置への第一歩です。

 私たちはヨーロッパをはじめとする世界のあらゆる地域でさらに努力し、LGBT社会の人権に対する一層の支持を促さなければなりません。ゲイであるという理由で人々が投獄され、暴力を振るわれ、あるいは処刑されている国々の指導者の人たちに考えていただきたいことがあります。それはリーダーシップとは本来、必要とされる時に自国民の先頭に立つことを意味するということです。リーダーシップとは全ての国民の尊厳を守り、自国民にもそれを促すことです。また法律の下で全ての国民が必ず平等に扱われるようにすることでもあります。もちろん、私はゲイの人たちが罪を犯さない、あるいはその可能性がないと言っているのではありません。異性愛者と同様、ゲイも罪を犯す可能性があり、実際に罪を犯しています。そしてゲイも罪を犯せば責任を問われるべきです。しかしゲイであることが犯罪であってはなりません。

 私は全ての国の人たちに、人権の支持は皆さんの責任でもあると申し上げます。ゲイの人々の生活の状況は法律だけでなく、家族や隣人たちから日常的に受ける扱いによっても異なります。世界各地で人権の推進に多大な貢献をしたエレノア・ルーズベルトは、こうした権利は身近な小さな場所、例えば自分が住む町、通う学校、働く工場や農場やオフィスから始まると語りました。皆さんの行動範囲です。皆さんがいる場所で人権への意識が高まるかどうかは、皆さんの行動や推進する理想にかかっています。

 最後に、世界中のLGBTの皆さんにはこう申し上げたいと思います。皆さんがどこに住んでいても、どのような状況にあっても、また支援してくれるネットワークがあっても、あるいは孤独で傷つきやすいと感じていても、皆さんは一人ではないことを忘れないでください。世界中の人たちが皆さんを支え、皆さんが直面する不当な行為と危険をなくすために一生懸命努力しています。米国については間違いなくそう言えます。米国は皆さんの味方であり、多くの米国民が皆さんの友人です。

 オバマ政権は包括的な人権政策の一環として、また外交政策の優先事項のひとつとして、LGBTの人々の人権を守ります。各国の米国大使館では、米国の外交官たちが(各国の)具体的な事例や法律について懸念を提起し、さまざまなパートナーと協力し、全ての人々の人権保護の強化に努めています。ワシントンではこうした取り組みの支援と調整のために、国務省内にタスクフォースを設置しました。そして今後数カ月内に、各米国大使館の活動の向上に役立つツールキットをあらゆる大使館に提供する予定です。さらにLGBTの人権擁護活動家に緊急支援を提供するプログラムを新たに作成しました。

 今朝ワシントンではオバマ大統領が、外国でのLGBTの人々に対する人権侵害と闘う米国政府初の戦略を導入しました。大統領は国務省および政府全体ですでに進行中の取り組みを基盤に、LGBTであることやその行為の非合法化と闘い、弱い立場にあるLGBT難民や亡命希望者の保護を強化し、米国の対外援助がLGBTの権利保護を促進するようにし、差別との闘いに国際機関の協力を要請し、LGBTの虐待には迅速に対応するよう、国外で活動する全ての米国政府機関に指示しました。

 また世界各地でこうした課題に取り組む市民社会組織の活動を支援する平等を推進する国際基金の新設を発表でき、うれしく思います。この基金はこうした組織が事実を記録し、権利擁護活動の目標を立てるために使われるほか、ツールとしての法律の利用の仕方の習得、予算の管理、スタッフの訓練、女性団体などの人権団体とのパートナーシップの構築にも使われます。米国はこの基金開設に当たり300万ドル以上の拠出を表明しており、他の国々からも支援が集まることを期待しています。

 敵対的な環境の中でLGBT社会の人権を支援する人たちは、勇気と熱意に満ちており、私たちは彼らにできる限りの支援をしなければなりません。そのうちの何人かは今日ここに来ています。これからの道は容易ではありません。まだ成すべき多くの仕事が残っています。しかし私たちの多くは、変化がいかに急速に起こり得るかをこの目で見てきました。私たちが生まれてからこれまでの間に、多くの地域でゲイに対する考え方が大きく変化してきました。私も含め多くの人々が、長年この問題についてより深く考え、対話や討論に参加し、ゲイの人々と個人的にも仕事の上でも関わる中で、この問題に対する信念を深めてきました。

 こうした進展は至るところで見られます。一例を挙げると、デリーの最高裁判所は2年前にインドでは同性愛は犯罪ではないとの判決を下し、「インド憲法の基本的な主題と言える信条をひとつ挙げるとすれば、それは包括性である」と述べています。LGBTの人権に対する支援が今後も増え続けることに疑いの余地はほとんどありません。なぜなら多くの若者にとっては、全ての人々はその人となりや愛する対象にかかわらず、尊厳をもって扱われ、その人権を尊重されなければならないことが明白だからです。

 米国には他者に人権支援を促す際に引き合いに出す表現があります。それは「歴史の正しい側に立とう」です。米国は歴史的に、不寛容や不平等と繰り返し闘ってきました。奴隷制をめぐり激しい内戦がありました。全米各地の人々が、女性、先住民、少数民族、子ども、障害者、移民、労働者などさまざまな人たちの権利を認める運動に参加しました。平等と公正を目指す前進は続いています。人権の輪を広げる運動を支持する人たちは、これまでも、そして今も歴史の正しい側に立っているのであり、歴史はそうした人たちを高く評価します。人権を制約しようとする人たちが間違っていたことを歴史が示しています。

 私が今日お伝えした考えが、どの意見が今も変化しつつあるのかという問題を含んでいることは分かっています。これまでの多くの事例と同様、今回もさまざまな意見がいずれ真実に集約するでしょう。全ての人々は生まれながらにして自由であり、尊厳と権利に関して平等であるという不変の真実です。私たちは再び、世界人権宣言の文言を現実のものとするよう求められています。その要求に応えようではありませんか。全ての人々のために、全ての国家のために、そして私たちの今日の努力がその人生を左右する将来の世代のために、歴史の正しい側に立とうではありませんか。私は今、今後の道がいかに長くとも、私たちは力を合わせてその道のりを乗り切れると確信し、大きな希望を抱いています。どうもありがとうございました。