ケネディ駐日米国大使のコロンビア大学国際公共政策大学院卒業式での講演(抜粋)

*下記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です。

2015年5月21日、ニューヨーク市

(前略)

 これから皆さんがどれだけ深く政策に傾倒したとしても、世界中の人々の心を動かすのは、希望、人間の尊厳に対する敬意、他人への奉仕、そして平和に対する決意といった最も基本的な価値観です。米国大使として日本に着任して以来、私はそれをじかに見てきました。今年は第2次世界大戦の終結から70周年に当たります。地域関係における歴史の役割と、現在および将来の問題を解決するため共に努力する必要性について検討が重ねられ、大きな関心を集めています。

 2015年はまた日米同盟の成立から64周年でもあります。戦後の焼け跡から築かれた我々の同盟の範囲は安全保障にとどまりません。日本と米国は民主的な価値観、人権の尊重、法の支配を共有しています。両国は健康安全保障、災害救援、人道支援、女子教育、エネルギー安全保障と気候変動、核不拡散の分野において、世界規模で連携しています。

 日米間の信頼と友情は我々の両親および祖父母の世代が築き、維持してきました。しかしこれを当然のことと考えてはいけません。日米同盟や他の同様の関係が世界で積極的な役割を果たし続けるには、世代ごとに関係を構築する必要があります。今度は私たちの番です。

 幸い私は手本を示して教えてくれる家庭で育ちました。他の人に働きかけ、共通点を見つけ、より良い世界の実現のために努力するにあたり、年を取りすぎているとか若すぎることは決してないと教わりました。それは米国と同様、日本にも当てはまることが証明されました。

 1つ例を挙げましょう。おそらく皆さんもご存知かと思いますが、ケネディ大統領は第2次世界大戦中、米海軍で軍務に就いていました。父が艇長を務めていた哨戒魚雷艇は日本の駆逐艦の攻撃で真っ二つにされ、ガソリンタンクが爆発しました。乗員のうち2人が死亡し、他はやけどがひどく泳ぐことができませんでした。全員戦死したものと誰もが思いました。6日間にわたり危険な状況にさらされた後、父はカヌーに乗ったソロモン諸島の島民を見つけ、ヤシの実にメッセージを刻んでその島民に渡しました。こうして救助活動が手配されたのです。

 戦争が終わり下院議員となった父は、自分が乗っていた魚雷艇を撃沈した駆逐艦の艦長であった花見弘平氏と手紙をやり取りしました。彼らと同世代の世界中の多くの若者がそうであったように、花見さんも故郷に戻って公職に立候補し、福島県で町長を務めました。2人とも和解を願い、平和への思いを共有していました。1950年代に入り、父は「きのうの敵であり、きょうの友である花見艦長へ」と書いた写真を花見さんに贈りました。この写真は先日まで、東京で展示されていました。駆逐艦の乗員の1人は、1952年の上院議員選挙で父の選挙運動を手伝ってくれました。1952年は日本の占領が終わった年です。大統領に選ばれたとき、父は駆逐艦の乗員全員を就任式に招待しました。また現職大統領として初めて日本を訪問することを希望していました。

 駐日大使として着任以来、私は(日本人の)米国に対する強い親近感とケネディ大統領に対する親愛の情の深さに心を打たれています。父の就任演説を暗記して英語を勉強した世代の人たちがいて、ほとんど毎日のように誰かがその言葉を私に引用してみせてくれます。「国家が君たちのために何ができるかでなく、君たちが国家のために何ができるかを問え」という言葉です。奉仕を呼びかけるその言葉が、彼の死後50年を経過した今でも世界中で繰り返されています。

 この人の心を動かす和解の物語は今も続いています。去る3月、私は故・花見艦長の奥さまに会う機会を得ました。そして一人の人間に及ぼす歴史の力を感じました。先月、安倍首相が日本の指導者として初めて上下両院の合同会議で演説したとき、硫黄島で戦ったスノーデン海兵隊中将と、旧日本軍の硫黄島守備隊司令官のお孫さんが握手をしました。このお孫さんは現在、国会議員を務めています。これらの出会いは、歴史の感情的な側面から政策を切り離してはならないことを思い起こさせてくれます。そして平和は、数え切れないくらいの個人の勇敢な行為、情熱、犠牲そして友情によって築かれることを私たちに示してくれています。

(後略)